【日刊】わたしの日常

私の日常は誰かにとっての非日常

思い出

私は障害者と診断されたことがありません。

 

ですが、小学生の頃から周りの考えないようなことを話したり動いたり作品を作っていたようで、周りからは「チテショー」と言われていました。

 

それがなんのことか分からずにいた私に、隣の席の男の子は、

「お前ってまじチテショーだよな」

と笑いながら当たり前に人に言う言葉と思わせる口調で言ってきました。

 

「チテショーって何?」

と別に問い詰めるつもりもなく単純に気になることはとことん知りたいタイプの私はこう聞いたのですが、その子はとても嫌そうな何か隠していたいような顔をしたんです。

 

そして、ポソッと言いました。

「知的障害だよ」

 

それは他人には言いにくい言葉と分かっていながら、なぜ私には笑いながら当たり前に人に言う言葉と捉えられてしまう顔で言ったのか、今でも不思議です。

 

小学生だから。とか

ネタで笑い合える関係性だから。とか

こいつになら言っていい言葉だ。とか

 

私にはよくわからなくて、その子とは違ったなんとも苦しいような難しい気持ちになりました。

 

その瞬間、もし私が怒ったら、

当事者の方と同じだと思われたくないと思っているなんて嫌だし、

こんな子でも普段の優しい一面を知っているから悲しませたくないし、

私って人に怒っていい人じゃない。

この子にとっては「チテショー」は当たり前なんだ。

 

と考えていました。

 

でも親戚の子が浮かんできてイライラした。

 

考えて考えて悶々悶々……

 

 

私の通う小学校は週末に「先生、あのね」という日記を書き習慣がありました。

たまに授業の時間が余った時に名前は伏せて読んで、こんなことあったんだー!って楽しむ時間もありました。

私は「チテショー」のことが頭から剥がれずにいたので、先生はどうだろうか?と疑問に思い、誰に言われたとかは書かずに書きました。

 

すると週明け、

先生が月曜日なのに「先生、あのね」を読む時間を設けました。

何を食べたどこでだれと遊んだ、小学生らしい「先生、あのね」を読んで聞かせてくれてとても楽しかった。私のは先生に対する質問だから読まれないだろうと思った時、先生は私の日記を読み始めました。

 

先生は感受性豊かで嬉しくても悲しくても怒っても涙を流すことがある先生でした。

周りの大人はそれを「すぐ泣くやつね」と馬鹿にしていましたが、私はその先生の優しさに何度も憧れて、時には思い出して家で一人先生を思い泣きました。

その先生が私の「先生、あのね」を読んで泣き始めたのです。

 

そして、こんなことは絶対に言ってはいけない。と言いました。

 

 

 

やっぱりそうだよね。

だめだよね。

と先生を見つめました。

 

その子は私に「チテショー」と言わなくなったけど、変わらず話してくれてました。

少しだけ後ろめたい顔をする時もありましたが……

その子からしたら周りから指摘されるようなことを言ってしまった相手が先生にチクった人だからちょっと後ろめたくなるのもわかります。

でもそれで「チテショー」なんて言葉を使わない人になっているなら悪くないのかなと思ってしまいます。

悪い人です。